星の数

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アメリカで子育て中。日々考えたことを綴っています。

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アーミッシュのキリスト教の信仰理解について疑問に感じたこと

前回の続きです

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以下は元アーミッシュの男性へのインタビュー内容です。

 

 


アーミッシュを離れるにあたって一番葛藤したことは?

自分の救いの問題だね。つまり、自分が死んだ後に天国に行けるかどうか、ということ。
アーミッシュの人たちは、アーミッシュ以外の人たちは救われない(死後に天国に入ることができない)と考えている。天国に入るには、アーミッシュの戒律を守ってコミュニティに属することが必要だと考えているんだ。


今の僕はクリスチャンだけれども、聖書には「人は自分の行いによって救われることはできない。ただイエスキリストを信じる信仰によって救われる」と書いてあって、その通りに理解している。つまり、救いは良い行い(work)によって得るものではなく、イエスキリストを信じる信仰(heart) によるものなんだよ。


アーミッシュの人たちは、敬虔でとても良い人たち(good people)なんだけど、本当に自分は死後に天国に行くことができるのだろうか?と自信がない人が多い。救いの根拠を、自分は良い行いをしているだろうか?という観点で考えているから、そうなるんだと思う。

 

 

 


私が今回の旅行で一番衝撃的だったのは、上記の内容でした。

 

多くのアーミッシュはなぜアーミッシュとして生きることを選ぶのか ?

前回の記事で書いたように、アーミッシュで生まれた子供たちは、アーミッシュの洗礼を受けてアーミッシュとして生きていくか、それとも外の世界で生きて行くか、自分の意思で選ぶことができます。そして驚くべきことに、8割以上の人はアーミッシュの洗礼を受けることを選ぶそうです。

 

私は最初にこのことを聞いたとき、どうしてそんなに大多数の人がアーミッシュとしての人生を選ぶのだろう?と感じました。やはり、生まれ育った生活スタイルやコミュニティの人間関係が大切だから、その道を選ぶのだろうか、と考えていました。

 

しかし、アーミッシュの電気を使わない生活は不便ですし、現代社会の中で彼らのコミュニティはかなり特殊な存在です。外の世界の人からは奇異の目で見られることも多いでしょうし、なぜ自分はアーミッシュなのか?と絶えず意識すると思います。

 

アーミッシュ以外の人は天国に入ることができない?

アーミッシュは、外の世界の人は救われないと考えている。天国に入るためには、彼らのルールを守ることが必要だと考えている」という元アーミッシュの彼の言葉に、私は驚きました。

が、それと同時に、だからアーミッシュとして生きることを選ぶ人が多いのか、と納得しました。天国に入りたいから、救われたいから、アーミッシュとして生きる道を選ぶ。

 

私はプロテスタントのクリスチャンですが、イエスキリストを信じることは人生に必要だと思っています。
でも、アーミッシュの様々な細かいルールを守ることは、天国に入るために必要なことではないと考えています。私はクリスチャンで、聖書を日常的に読んでいます。アーミッシュの人達が読んでいる聖書も、翻訳は古くはあれども、基本的には同じものです。それなのに、どうしてこんなに解釈が異なるのか、考えてみました。

 

 

 聖書の解釈の問題について考えてみた

 

 

聖書を読むと、明らかに禁じられていること(偶像を拝むこと、殺人など)もあります。しかし、一方でグレーな部分(善でも、悪でもなく、命じられてもおらず、禁じられてもいないこと)もたくさんあります。そのへんは、個々人の良心に基づいて判断をしてね、ということになります。

 

アディアフォラ(adiaphora、ギリシア語: ἀδιάφορα、無関心なもの)とはストア派によって形成された概念で、善でも、悪でもなく、命じられてもおらず、禁じられてもいないこと。新約聖書においても用いられ、キリスト教の概念としても議論されるようになった。

 

 

アディアフォラ、つまり分かりやすく言うと「どっちでもいいじゃん」という事柄です。

たとえば、服装について。アーミッシュの人たちは昔ながらの服装をしています。
これは、聖書に「適度に慎み深く身を飾りなさい」と書いてあることに基づくそうです。

 

 

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でも、慎み深く、って人によって解釈に幅がありますよね?
私はクリスチャンですが、アーミッシュの女性のようなワンピースはもっていませんし、子育て中なので動きやすいジーパンで教会に行ってます。私の知る範囲では、教会では女性がすごい露出した格好で礼拝に行くのはあまり好ましくないと思いますが(周りの男性の目に刺激になってよろしくない)、極端な格好でなければどんな服装でもオッケーだと認識しています。

 


アーミッシュの本屋さんで、アーミッシュの教義の本を買った

私は旅行中にアーミッシュの人達が通う本屋に立ち寄ったのですが、この本を買いました。

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お値段なんと2.5ドル!安い。笑  手のひらサイズの本です。


アーミッシュの人たちが何を信じているのか、どういう教義を根拠にして信仰や生活の実践をしているのか、について書いてある本です。私にとっては、なかなか興味深い内容でした。

服装の内容については8ページにわたって書いてありました。といっても、こういう色の服を着ましょうとか具体的な指示ではなく、服装に関する聖書の教えを引用して、アーミッシュではこのように解釈します、この考えを前提にして具体的な細かいルールは各コミュニティで決めてね、といった内容でした。

読むと、服装はmodest apparel(慎ましい身なり)というのがキーワードらしいです。

 

アーミッシュの人たちが根拠にしている聖書の箇所はこちら。新約聖書のテモテへの第一の手紙の引用です。

 

「同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、 むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。」
‭‭
アーミッシュの人たちはこの言葉を厳粛に受け止めていて、服装の細かい規定があり、お化粧や鏡を見ることも禁じられているそうです。

 

聖書から服装の問題について考えてみる


実は新約聖書を読むと、服装に関する記述はほとんどありません。強いて言えば、先ほどの箇所くらいです。これは、新約聖書のテモテヘの第一の手紙‬の引用です。

 

この手紙は、使徒パウロから、エペソの教会で牧会していたテモテに宛てて書き送られました。なぜパウロはこのようなことを手紙の中で書いたのか?それは当時の時代背景を考える必要があります。

このエペソの町には、豊穣の女神アルテミスを祭った神殿があり、そこには何千という神殿娼婦と呼ばれる人たちがいたのです。彼女たちは町に繰り出しては男たちを魅了していました。派手なファッションをして、金や真珠の宝石で身を飾って挑発していたのです。パウロはそういう状況の中で、あなたがたはこのような派手な格好をして自分をアピールするのではなく、神を敬う女性にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさいと言ったのです。

つまり、度を越した派手な身なりをしてはいけない、ということです。
どのくらいが度を越した派手さになるのか?というのは人によって感覚が異なるので、アディアホラ(どちらでもよい事項。個々人の良心に従って判断する)の問題になると思います。

 

私個人としては、あまり露出が激しい格好はNGだと思いますが、一切化粧はダメ、鏡を見るのも禁止、というのは行き過ぎてるんじゃないかなーと思います。だって、著者のパウロはそこまで意図して書いていないだろうと思われるからです。

 

救いは行いじゃない、ハートだ!

今回は服装の問題を取り上げましたが、その他にもアーミッシュのコミュニティには様々な規定があります。電気を使ってはいけない、車を所有してはいけない、など。


ライフスタイルを選ぶのは個々人の自由であり、どちらでもよいアディアホラの範囲の事柄だと思いますが、それらの規定を守ってコミュニティに属していないと死後に天国には入れないと教えるのは問題があるのでは、と感じました。

なぜなら、聖書にそんなことは書かれていないからです。

 

自分の慣れ親しんだライフスタイルやコミュニティが好きだから、という理由でアーミッシュになることを選択するのは良いと思いますが、アーミッシュじゃないと天国には入れないから、地獄に入りたくないから、という理由で洗礼を受けるのであれば、その考えは間違っているのでは?と私は思います。それが理由で家族の間で離別が生まれるのも悲劇だと思います。


あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(新約聖書エペソ二章より)

 

 

インタビューをした元アーミッシュの男性が、救いは行い(work)じゃない、信仰(heart)なんだ、と繰り返し言っていたのが印象に残っています。

 

昔、クリスチャンではない友達とキリスト教の話をした時に、
キリスト教って、イエスキリストを信じれば救われるっていうけど、そこが理解しがたい。一生懸命善行を積んだ人が天国に入れる、っていう方がまだ分かりやすい」
と言われて、なるほどーと思ったことがあります。

頑張った人が報われる、というのが日本人の精神性に、マッチしているのかもしれません。

 

キリスト教の概念では、人間は皆心に罪を持っているので死後にさばかれる、とされています。聖書では、人間の罪は借金に例えられています。人が一生に犯す罪の負債は何兆円、途方もない金額で、少し善行を積んだくらいでは返済できないような額だそうです。人間の罪という借金をチャラにするために犠牲の生贄として捧げられたのが、イエスキリストの十字架での死であり、イエスキリストをただ信じれば救われると聖書は語っています。

 

少し難しいですが、つまり、キリスト教の救いはその人が正しい行動をしているか、という部分で決まるのではなく、あくまでもイエスキリストを信じるかどうか、心の部分で決まる、ということになります。


アーミッシュによる、アーミッシュへの宣教団体

アーミッシュの人へのインタビューを通して、彼らの救いの認識の問題を知り、私は複雑な気持ちになりました。それまでは、銃乱射事件の赦しのエピソードや、彼らの質素で敬虔なライフスタイルに好意的な印象を持っていたのですが、自分たちの教えを守らないと救われないという考え方はひどく閉鎖的に感じられました。

旅行から帰ってきた後にインターネットで調べていたら、このようなサイトを見つけました。

 

www.mapministry.org

 


アーミッシュの人たちへのキリスト教の宣教団体です。宣教師は、かつてはアーミッシュだったけれども、聖書の教えとアーミッシュの教義が離れていることを感じてアーミッシュを辞めた人達です。サイトの中に、宣教師の人たちのこれまでの生い立ちや経緯が書いてありました。やはり私が感じたのと同じような問題意識を持っている人は他にもたくさんいて、既にこのような活動や団体も存在するんだなと思いました。個人的には、ここの宣教師さんたちを応援したい、頑張って欲しいなと思いました。